今回ご紹介する本は「国宝 上・下巻」 吉田修一さん著 朝日新聞出版 令和3年9月30日初版発行)です。
小説よりも先に映画をご覧になった方も多いと思います。
それもそのはず。上映時間2時間55分という、なかなかお目にかかれない長尺映画にもかかわらず、令和7年6月6日の公開から11月24日までの172日間で、興行収入173億7700万円あまりをたたき出し、それまでの実写邦画1位だった「踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!(2003年)」の興行収入173億5000万円を超えたのです。
記録はさらに公開から225日目となった今年2月15日までに200億851万円あまりに達し、さらに観客動員数も1000万人を超えるメガヒットとなりました。
そして、公開から1年となった今年6月6日からは、Amazonプライムビデオにて無料で視聴が出来るようになっています。
映画化された作品については、いつもなら小説を先に読むのですが、今回は歌舞伎が舞台ということもあり、私は歌舞伎についてあまりよく知らなかったので、映像を先に見た方がいいと思って、6月6日から見ることが出来るようになったAmazonプライムビデオを先に視聴しました。

およそ3時間に及ぶ映画は、見応えがありました。
予告編では歌舞伎の華やかな舞台が中心の映像でしたが、この物語の本質は、ヤクザの息子である立花喜久雄と歌舞伎界の人気役者、花井半次郎の息子、花井半弥こと花井俊介の人生をかけた物語です。
映画は映画で面白かったのですが、経験上、小説を原作とした映画は、小説とは別の作品になっていることが常でありますので、参考にするのは舞台の映像くらいにとどめて、さて、いよいよ本を開いていくのであります。
以下、ネタバレを含みますので、ご注意ください。
結論から申しますと、私にとってはやはり、小説の方が圧倒的に面白かったです。
まず、文調が面白い。
まるで歌舞伎のト書きを読んでいるようで、いままでこういう文体、文調の作品を読んだことがありません。なので、このブログも著者である吉田修一さんの影響を多少なりとも受けています。
小説の主人公は、間違いなく立花喜久雄、三代目の花井半次郎です。
喜久雄は長崎のヤクザ、立花権五郎の一人息子として生まれますが、物語の冒頭、権五郎は組の闘争に巻き込まれて喜久雄の目の前で射殺されてしまいます。その後、たまたま権五郎の事件現場に居合わせた二代目花井半次郎に引き取られ、そこで花井東一郎として舞台役者の道を歩み始めます。
やがて喜久雄は三代目の花井半次郎を襲名しますが、その後は壮絶な歌舞伎役者としての人生を歩いて行くことになります。
一方、花井半次郎の息子で、喜久雄の兄弟子でもあり、友人でもあり、ライバルでもある存在として重要な役割を負っているのが、花井半弥こと花井俊介です。俊介の役柄はほぼ映画と同じですが、一度は歌舞伎の世界から距離を置いた俊介がどん底から這い上がる姿が、力強くかつ哀しげに描かれています。映画ではほぼ割愛されてしまっている場面ですが、個人的にはここをもっと描いて欲しかったです。
また物語に欠かせない人物がもう一人。映画では、冒頭部分にだけ登場している喜久雄の生涯の友ともいうべき、立花組の部屋住みの組員、徳治です。
この徳治。ふと思いついて小説のページをめくり返したのですが、名字が書かれていません。
徳治は徳治だといわんばかりで、「徳治」あるいは「徳ちゃん」と呼ばれているのが徳治なのです。
映画では物語の冒頭にだけ喜久雄とともに登場する徳治は、小説では物語の中盤まで、時に寄り添い、時に喜久雄を突き放し、文字通り命がけでからだを張って歌舞伎役者、それも希代の女形を演じる喜久雄を守り通します。間違いなく、喜久雄の歌舞伎役者としての成功は、この徳治なしにはあり得なかったでしょう。
だからこそ、映画の中でもこの徳治をもっと取り上げて欲しかったと思うのですが、先ほどの俊介のどん底や復活に至る場面や徳治を抜いたシナリオでも3時間に及ぶ作品になるのですから、やはり小説を映画化するのは難しいのだといわざるを得ません。もし、私の希望をそのまま映像化したら4時間越えの作品になったのか、あるいはもっと長尺になるのか、それならいっそ、宇宙戦艦ヤマトのようにシリーズものにしてしまってもよかったのかなと、思ってしまうのは外野の勝手な意見なのでしょう。
物語には多くの女性が登場します。
まずは喜久雄の幼なじみでもある福田春江。
彼女も、小説の中では「春江」としか描かれておらず、「福田」という名字は映画のシーンの中で知りました。なので、本当に春江の名字が福田なのかどうかは、分かりません。ただ、後に春江は「花井」の名字を得ることになります。
京都の舞妓、市駒もまた物語の中では重要な役回りの女性です。
市駒は喜久雄との間に綾乃という子を設けます。もちろん、喜久雄と市駒は夫婦の間柄ではありませんから、綾乃は非嫡出子ということになり、この綾乃もまた壮絶な人生を送ることになります。
綾乃は映画の中に私が覚えている限り2度登場します。
一度は綾乃が小学2年生の時のこと。銭湯の帰りに稲荷神社に立ち寄るシーン。もう一つは、映画の最終版に人間国宝に選ばれた喜久雄の元に報道カメラマンとして現れるシーンですが、喜久雄と映画の最終版での登場シーンは小説にはありません。
そもそも、小説での綾乃は関取と結婚して相撲部屋の女将さんになっています。なので、最後のあの場面は映画のシナリオとして新たに描かれた場面ということになります。
女性としてはもう一人、喜久雄の妻となる彰子を挙げておかないといけません。
彰子は、これも歌舞伎役者の吾妻千五郎の娘で、すでに大きな証券会社の御曹司と婚約していたのですが、喜久雄はそれを知りつつ、そのとき人生のどん底から這い上がるため、千五郎の後ろ盾を得ようと、言ってみれば彰子を利用したのです。
彰子が婚約を破棄して喜久雄の元に行く場面は映画の中でも描かれているのですが、やや唐突感が否めなく、「なんでいまこのシーン?」と思ったのは事実であります。
その彰子。映画の中では、落ちぶれて苦悩する喜久雄の元から去って行ってしまいますが、小説の中では最後の最後まで喜久雄を支え続ける姿が描かれています。
こうした様々な人の人生が複雑に絡み合って立花喜久雄という一人の女形の歌舞伎役者の人生を描いていくのですが、物語は最終番に大転機を迎えます。残念なことに、映画ではここを描き切れていないと、私個人は思うのです。
それは歌舞伎役者として突出した舞を演じる喜久雄が「藤娘」を演じていたときのこと。
「ゆっくりと焦らすように客席に背を向けて、再び振り返ったときでございました」
振り返った喜久雄の目の前に一人の男が立っていたのです。
このとき、喜久雄の中で何かが壊れたのです。小説の中ではこう描いています。
「遠近が狂ったのはそのときで、舞台と客席のあいだにあるはずの何かを、男が破って舞台に上がり込んできたのは間違いありませんでした。
そこに何があったのか、すでに破られてしまった今、喜久雄にももう見えず、思い出せません。
だた、そこには何かがあった。ずっとあった。(中略)何かが、自分の目の前で敗れ落ちてしまったという感覚を、はっきりと感じたのでございます」
このとき喜久雄が感じた「客席と舞台の間にある(あった)何か」は、具体的に何を指すのかは分かりません。でも、私はこの「何か」が分かる気がするのです。
舞台と客席は、世界が違うのです。役者は客席の世界に行くことは出来ないし、客は舞台の世界に上がることは出来ない。二つの世界は平行世界であり、客席から見る舞台と舞台から見る客席はそれぞれ別の世界に存在しているのではないか、そこには明らかに「見えない境界線」が存在していたのではないかと思うのです。
映画の中で喜久雄は人間国宝に指定され、インタビューを受けています。その中で喜久雄は「この先目指すもの」を尋ねられ、「風景を探している」と答えます。おそらく、映画の中ではその風景のキーワードとして「雪」が描かれているのだと思います。
父である権五郎が暗殺される場面、歌舞伎役者として覚醒していく場面、そして最終版にそれぞれ雪が描かれているのはそのためではなかったかと、個人的に推察しています。
しかし小説では、喜久雄は人間国宝に認定はされますが、喜久雄がそれを知る場面は描かれていません。そして、最後に喜久雄が踊るのは「鷺娘」ではなく「阿古屋」です。
つまり、これは小説を原作とした映画の限界だと思うのですが、2時間、あるいは3時間とい宇時間枠の中に原作のすべてを表現することは不可能で、どうしても興行的に観客を誘引、あるいは動員して売り上げを上げなければなりません。故に、どうしても映像ならではの視点で以て、原作を元に「新たな物語を作る」必要があるのでしょう。これは仕方のないことです。
けれど、けれど、です。
そのことを十分に理解した上で、誤解を恐れずに言えば、映画の「国宝」は原作の最も大切な部分を見逃してしまったのではないかと、私には思えるのです。
それは「見えない境界線」です。
「鷺娘」を踊る喜久雄の面前に突如として現れた男は、その境界線を壊してしまった。
舞台と観客席という間にあった境界線。それは役者も観客もそこに何かがあることを十二分に知っていて、かつ、それを犯すことをしてこなかった。それは観客の役者に対する畏敬の念であり、役者の観客に対する感謝の気持ちであったのかもしれません。
映画の中でも、同じように舞台上の喜久雄の面前に現れるシーンはあります。ありますが、あれは違います。小説を読んでみて、初めて分かりました。あの場面は、あのように描かれてはいけない場面であり、監督やシナリオライターが原作に書かれている意味を十分に理解できていなかったのではないかと思ってしまう一因なのであります。もちろん、私見ですが。
先ほど、ちょっと連れた、喜久雄が綾乃を連れて稲荷神社に詣った時のことです。
そこで喜久雄は綾乃に
「お父ちゃん、神様にぎょうさんお願いごとするんやなぁ」と訊かれます。これに対して喜久雄は、
「お父ちゃん、今、神様と話してたんとちゃうねん。悪魔と取引してたんや」と、答えます。
このシーンは、映画では比較的早い場面に登場しますが、これ、小説では終盤に描かれています。
先に喜久雄が悪魔と取引をしたという情報を得た観客は、その後の展開に悪魔の姿を見ることになるでしょう。一方、後から悪魔との取引があったことを明かされた読み手は、なるほど、これまで喜久雄とその周りで起きてきた出来事は悪魔との取引があったからなのかと得心するのです。
これは、どちらがいいとか悪いとかという話ではなく、映画としてはそういう「演出」をしたということなのです。
でも、再三で申し訳ないのですが、なぜ原作では後から描いたのかという点は、考慮して欲しかったなと、自分が物語を書く立場からなのでしょうが、そう思ってしまうのです。
映像化に当たっては、原作者の意図を十二分にくみ取って欲しいと。
芦原妃名子さん原作の漫画「セクシー田中さん」という作品がありました。
これは2023年10月から日本テレビにてテレビドラマ化された作品としても有名ですが、ドラマの脚本を巡って芦原さんとトラブルになり、2024年1月に芦原さんが自殺してしまうという悲劇が起きました。原作者としては、テレビドラマの放映中も、依然として原作の漫画は連載中であり、原作とテレビドラマのストーリーに乖離が生じてしまうと、原作の漫画が壊れてしまうと訴えていたそうです。
それほどに、原作者は自分の物語を大切にしているのです。これは、同じように物語を書いた私としても十分に理解できます。私も「オブシディアンの指輪」を映像化したくて、NHKエンタープライズや東北新社などのアプローチしたことがありますから。
でも、やっぱり映像の持つ力はものすごくて、目から直接入ってくる情報は強いのです。
だからこそ、映像化にあたっては原作者の意図を十分にくんで欲しいなと、改めて思うのです。
誤解して欲しくないのは、私は映画の「国宝」を否定しているわけではありません。それを否定するのなら、例えば昨年観た「この夏の星を見る」もそうですし、「ナミヤ雑貨店の奇蹟」もそうです。これはまだ観ていませんが「クスノキの番人」も同じだと思います。
映画は映画の作品として楽しめばいいので、映画のここをああして欲しかったな、こうして欲しかったな、というのは、あくまで映画作品に対する個人的な意見であり、感想でしかないのです。
そしてその評価の根底に、私自身が物語の書き手であるということがあるのもまた事実なのです。
3時間という映画「国宝」も見応えのある作品です。いまならAmazon Prime Videoで視聴できますので、是非、ご覧ください。映画の影響でしょう、実際に演劇場に歌舞伎を見に行く人も増えているそうで、こういうことが映像の力だと思うのです。
そして、小説「国宝」。
3時間ではとても読み切れませんが、その分、読み終えたときに一つの歌舞伎の演目を見終えたような満足感が得られると思います。喜久雄や俊介だけでなく、登場するすべての人間の生き様が複雑に絡み合って、一つの国宝とという物語を紡ぎ出しています。それぞれの人がどんな表情で、どんな感情を以てそのときそのときを生きているのか、読み手一人一人の想像力をフルに働かせて、みなさん一人一人の「国宝」を作り上げていただければと思います。
上下巻、全20章。個人的に19章、20章の展開には、シビれました。
追記)映画がヒットしたのは、このMVの仕上がりの良さ、主題歌の良さも一役買っているかもしれませんね。

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