今回紹介する本は、坂本龍馬に関する本です。
一つは、武田鉄矢原作、小山ゆう作画の漫画「おーい竜馬」、もう一つは、司馬遼太郎さん著の長編時代フィクション小説「竜馬がゆく」です。
どちらも江戸幕府末期の英雄としてのみならず、日本を代表する英雄として名高い坂本龍馬の生涯を描いた物語で、私も学生時代に何度も読みました。
坂本龍馬こそ、現代日本の礎を作った男だ。
坂本龍馬がいまの日本の首相だったら、日本はもっといい国になるだろう。
そんな風に思ったものです。
でも、ちょっと待って。
「おーい竜馬」も「竜馬がゆく」も、どちらもフィクションだよね。
ということは、ここに描かれていることは必ずしも本当のことではないのではないか。
そんな疑問が生まれてくるのです。
たしかにどちらも物語であって、伝記ではありません。
検証してみましょう。
坂本龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)に土佐藩の家に生まれました。
当時の土佐藩は上士と下士とに分けられていて、竜馬の生まれた坂本家は下士、これを郷士と呼んだのですが、竜馬の父、坂本直足は婿養子として坂本家を継いでいて、祖父の山本信固や信固の弟である宮地信貞はともに白札郷士であったことから、血統上、龍馬は郷士ではなく、上士ということになります。
坂本龍馬には、小説や漫画のタイトルにあるように「竜馬」の表記がありますが、竜は龍の常用漢字であり、常用漢字は大東亜戦争後、GHQの占領政策の中で強要された文字なので、当然、竜馬が生きていた時代には「竜」ではなく「龍」が使われていましたので、このブログでは小説のタイトル以外の表記は「龍」にしています。
江戸幕府末期、薩摩藩と長州藩は、ともに雄藩として幕府に大きな影響力を持っていましたが、薩摩藩は幕府の開国政策を支持する立場であったのに対して、長州藩は反対の攘夷論を唱えていました。この2つの藩を慶応2年(1866年)薩長同盟として結びつけたのが坂本龍馬とされていますが、このあたりの出来事を世界情勢と合わせてみていきましょう。
1600年 イギリス東インド会社
1602年 オランダ東インド会社
1603年 徳川家康が江戸幕府を開く
1823年 フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ人)が来日
1824年 シーボルトが鳴滝塾を開塾
1828年 シーボルト事件(大日本沿海興地全図(伊能忠敬の地図)を密輸しようとした)
1840年 アヘン戦争が始まる
1842年 アヘン戦争終わる
1859年 トーマス・グラバーがジャーディン・マセソン商会に入社(上海)、
同年長崎に来日。
1861年 グラバー商会設立。ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店となる。
1862年 生麦事件
1863年 薩英戦争
1864年 禁門の変(蛤御門の変ともいう)長州と薩摩、会津の対立が決定的となる
1865年3月 トーマス・サザーランドが香港上海銀行設立
グラバーの手配により薩摩藩遣英使節団(五代友厚)1866年帰国
1865年5月 亀山社中設立(薩摩藩からの資金援助)
1866年 薩長同盟
幕末のお話しなのに、なぜ1600年頃、江戸幕府が出来た頃のことまで載せているのかというと、ここに今回のお話しの結論があるからです。それは、江戸幕府が開かれる前から日本は、当時、最も世界で勢力が強かったオランダやイギリス、いまでいうところのグローバリストに狙われていたからです。
そんな昔からオランダやイギリスが日本のことを知ってたの?
もちろんです。マルコポーロが日本について書いてますからね。東方見聞録。
1600年のイギリス東インド会社、1602年のオランダ東インド会社。どちらもアジアを狙った当時のグローバリストたちの拠点であったのです。
こうしてみると、なぜ、江戸の鎖国期にオランダだけが交易を許されていたのかが、よく分かりますね。
古くから日本が西洋から狙われていたことは、シーボルト事件からも明らかです。
シーボルトは日本に送られたスパイでした。
長崎の出島外に開いた鳴滝塾には、高野長英や長岡謙吉など多くの熟成が西洋医学や自然科学などの蘭学を学んでいました。その一方で、シーボルトは塾生たちに日本の自然や地理、歴史、風俗など関する論文の提出を求めていたのです。
シーボルトは、難なく日本の様々な情報を日本の優秀な塾生から集め、また動植物の大量の標本を持ち帰っているのです。これをスパイ活動と呼ばなくて何と呼ぶのでしょう。伊能の地図を持ち出そうとしたことは、彼のスパイ活動のほんの一端に過ぎません。
シーボルトは伊能図の持ち出しに失敗したと伝えられていますが、一部の地図は持ち出されたと言われていて、その地図を手にした一人がペリーでした。ペリーは黒船で来日する前から日本の事を調べ上げていたのです。
さて、幕末の世界を大きく動かしたのはイギリスでした。
1840年にイギリスは清国では禁じられていたアヘンを違法に売りつけて利益を上げようとします。しかし清国ではヨーロッパ、このときはイギリス東インド会社との交易を朝貢、つまり日本で言うところの「調」のようなものと認識していたので、イギリスにとっては面倒臭かったのです。
そしてこの面倒くささを解消するのがグローバリストたちのやり方です。
このことについては、機会を改めてご紹介させていただきます。
当時、イギリスと清国との貿易はイギリスの大幅な赤字となっていて、これを是正する必要があり、すでに取得していたベンガルアヘンの先買権と製造権を駆使して、清国がアヘンを禁止していたにもかかわらず、違法に売り込んでいったのです。
クスリで他国を侵略していく手法というのは、今も昔も変わらないのですね。
当然、清国も黙ってはいませんので、アヘンの全面禁輸を断行、イギリス商人が保有していたアヘンを没収・処分します。それに怒ったイギリスが軍事行動を起こしたというのがアヘン戦争のはじまりです。清国としては何も間違ったことをしていないのに、グローバリストのやり方というのは、本当に理不尽で巧みです。
1840年に始まったアヘン戦争は、2年後の1842年に終わります。
2年間の戦争だったのですが、ここでちょっとイギリスにとって、あまり宜しくない問題が起きます。それは、戦争用に製造した武器や軍監が余ってしまったのです。
そんな折、トーマス・グラバーがジャーディン・マセソン商会に入社します。ジャーディン・マセソンは、元々イギリス東インド会社で、令和になったいまも存在しています。つまり、イギリスにとってアジアの拠点でした。グラバーは、この会社の出身だということを覚えておきましょう。
来日したグラバーは、1861年にグラバー商会を設立。当然のように、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店となります。坂本龍馬はこのグラバーと、そして長崎の商人小曽根乾堂らと懇意にしていたのです。
やっと坂本龍馬の名前が出てきましたが、ここに至る経緯をしっかりと押さえておかないと、歴史の流れや背景を見失ってしまいます。
そして1862年9月14日(文久2年8月21日)に生麦事件が発生。
この事件は、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦付近で、薩摩藩の島津久光の行列に馬に乗った4人のイギリス人が、薩摩藩の再三の注意にも拘わらず下馬せず、久光の乗る駕籠に近づいたり、無遠慮に動いたため、数人の薩摩藩士がこれを排除しようと抜刀し斬りかかった事件です。
この事件については、アメリカのワシントンポストが
「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない」と評しています(Wikipediaより)
これはあくまで私の個人的見解ですが、この生麦事件はイギリスがわざと起こしたのではないかと思うのです。なぜなら、イギリスは幕府に賠償金10万ポンドを支払わせ、さらに薩摩藩にも2万5千ポンドを要求しているのです。幕府はイギリスとの戦争を避けようとしたのでしょう。10万ポンドを払いましたが、薩摩藩は拒否。ならばと、イギリスは薩摩に攻め入って薩英戦争が起きるのです。
どこかアヘン戦争の始まりに似ている氣がしてならないのです。
ところで、当時の10万ポンドとは、現在ならどのくらいになるのでしょう。
旧幕臣の戸川安宅は、1899年(明治31年)に当時の春陽堂から出版した「幕末小史」に「生麦にて10万ポンドステルリング(=英ポンド)、時価269,066両2分2朱あまりを払いぬ」と書かれています。
つまり10万ポンドとはおよそ27万両。
幕末に使われていたのは万延小判ですが、万延小判の重さはおよそ3.3グラム。金と銀から出来ていて、金の割合が57.4%、銀の割合が42.6%です。これを27万両に換算すると、金の総量は511,434グラム、銀の総量が217,871グラムになり、これに直近の金の価格(令和8年1月16日25,874円)と銀の価格(517円)を乗じると、金の価値が約132億円、銀の価値が1億1200万円あまり。合計で133億円余りになります。結構な額ですね。
薩英戦争は双方に大きな被害をもたらしましたが、結果として薩摩藩はイギリスに要求された2万5千ポンドを幕府から借りて支払っています(返してないらしい、ですが)。これに気をよくしたのか、これを機にイギリスは薩摩と仲良くなっていきます。
うがった見方をすれば、生麦事件から薩英戦争を経て、イギリスはまんまと日本に入り込むことが出来たわけで、グローバリストは私たちには分からないように浸潤していくので、これら一連の事件は、計画的だったのかなぁと思ってしまうのです。だって、133億円プラス33億円あまりのお金を、しかも金で持ってってますからね。してやったりではなかったのでしょうか。
さて、薩英戦争の翌年には禁門の変、蛤御門の変が起きて、薩摩と長州の対立が決定的となります。このときは薩摩側に会津藩もいて、薩摩と長州は坂本龍馬の仲介で同盟を結ぶに至りますが、会津と長州の遺恨はいま現在に至るまで残っているのです。
この禁門の変以降、長州は二度の長州征伐を受けることとなります。
そして、長州を守ろうと坂本龍馬はグラバー商会を通じて大量の武器を仕入れ、渡しています。それらの武器はアヘン戦争が終結してしまったために余っていたイギリス製の武器です。
アメリカやヨーロッパで作られ、余ったものを日本が引き受ける構図は、このときから始まっているのです。
ちなみに1865年に設立された香港上海銀行(HSBC)は、アヘンで得た利益をイギリス本国へ送るために設立されたとされていますが、1866年には早くも横浜に日本支店を開き、その後も神戸や大阪、長崎にも支店を開設し、幕府の貿易金融政策の顧問をしていました。
いまの三菱東京UFJ銀行の前身である横浜正金銀行は、この香港上海銀行をモデルとして設立されたと言われています。
香港上海銀行が設立されたのと同じ1865年には、長崎に亀山社中が設立しています。
亀山社中は坂本龍馬が日本最初の株式会社として設立したとされていますが、これも実態は違うようです。
まず、その設立資金です。
まあ、香港上海銀行と同じ年に出来ているというのも、何の因果かと思いますが、社中の設立資金を薩摩の五代友厚が出したと言われているんです。でも、当時、五代はイギリスに遣英使節団の一人として派遣されていて、日本に帰ってきたのは翌年です。電話もファクスもない時代にイギリスから五代が資金援助の指示を出したとは考えにくいですよね。
考えられるのは、例えばイギリスが薩摩を通じて、長崎の商人小曽根乾堂を介して資金援助をした、とか。
このときは主に長州にですが、大量の武器を売りさばくのに、グラバー自らが動くよりも坂本龍馬をはじめ、禁門の変の煽りを受けて閉鎖された神戸海軍操練所からあぶれてしまった土佐浪人たちを上手く使った方がいいという、グラバーなりの判断があったのではないかと勘ぐってしまうのです(亀山社中の設立時に龍馬は長崎にいなかったという説もあります)。
「おーい竜馬」や「竜馬がゆく」では、坂本龍馬が東奔西走し、時代を駆け抜けていったのですが、冷静に考えれば、何の後ろ盾もない浪人が、勝海舟や福井藩の松平春嶽らと対等に対峙できるとは考えにくく、坂本龍馬はこれまで書いてきたような日本国内外の状況下にあって、グラバーに上手く利用されたとも言えるのではないでしょうか。
坂本龍馬がフリーメイソンだったという都市伝説もあるようですが、その証拠はありません。
ただ、多くのグローバリストたちがそうであるように、グラバーと懇意にしていた龍馬が商法やキリスト教を学び、自分の知らないうちにフリーメイソンのメンバーになっていたという可能性もあるのかも知れません。
北辰一刀流の免許皆伝を持ちながら、生涯、一度も人を斬らなかった坂本龍馬。
日本の未来のために雄藩の長州を潰すわけにはいかないと駆け回り、薩長同盟を実現し、争いを起こすことなく大政奉還まで成し遂げたのは、もしかしたらキリスト教の影響を受けていたのかも知れません。
だとすれば、坂本龍馬を幕末の英雄に仕立て上げたのは、イギリスやオランダ、そしてフランスなどの西洋の強国、つまりはグローバリスト立ちだったのかも知れません(日本が鎖国を解いてはじめに通商条約を結ぶ相手にアメリカを選んだのは、当時のアメリカはまだ強くなかったからだと言われています。イギリスやフランスでは、国が乗っ取られてしまう恐れがあったのです)。
漫画や小説などの創作物は、作者がどんな風に書こうとも自由です。
私の書いた「オブシディアンの指環」も、日本の古代史は本当はこんな感じじゃなかったのかなぁという仮定というか、想像というか、妄想を物語に仕立てたもので、「おーい竜馬」や「竜馬がゆく」を否定するものではありません。
大切なのは、新しい情報に接したときに、自分自身で考えて、自分自身なりの一つの結論を出すことだと思うのです。それが間違っていることもあるでしょう。間違っていることが分かったら訂正すればいいだけのことです。
「あのときはこう言ってたくせに」なんて言う人は、放っておけばいいと私は個的に思います。
物語としては、どちらの作品も面白い作品です。
ここで紹介したような事柄を念頭に置きながら読むと、また新しい坂本龍馬像が見えてくるかも知れませんね。


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